1985(昭和60)年4月24日、国会において「国民年金法等の一部を改正する法律」(以下、1985年年金改正)が成立した。1985年年金改正に伴い障害基礎年金が誕生し、1985年年金改正施行前の1985(昭和60)年6月の障害福祉年金の額は、1級月額39,800円、2級月額26,500円、福祉手当11,250円であったが、1986(昭和61)年4月の1985年年金改正施行直後で1級月額64,875円、2級月額51,900円、特別障害者手当20,800円となった。1985(昭和60)年以前の障害年金は保険料拠出が給付の前提条件であり、20歳未満で障害を負った無拠出の者は排除されていた。障害基礎年金制度は、こうした従来の排除性を超えた点で、画期的な仕組みであった。しかし、無拠出制と拠出制が同額の障害基礎年金として統合された背景については、これまで十分に言及されてこなかった。
障害基礎年金の成立経緯は2つの時代的背景と深く関連している。1つめは第一次産業従事者の減少に伴う産業構造の転換や、第二次臨時行政調査会(以下、第二臨調)の財政緊縮の影響を受けた1985年年金改正の流れである。2つめは国際障害者年を背景とした当事者運動の流れである。
先行研究では、1985年年金改正と当事者運動はそれぞれが別々に研究されていた。年金改正と運動の2つの流れを関連付け、障害基礎年金として結実したという視点は先行研究にはない。年金改正の研究から当事者運動の流れを分析していくことは難しい。一方、当事者運動の研究から年金改正の背景を読み解くことは困難であろう。つまり年金と運動という研究領域の違いが障害基礎年金の成立背景の解明を遅らせたと言える。
本書では、こうした1985年年金改正と当事者運動という2つの大きな潮流がどのように関連し合いながら、保険の原則を超えた障害基礎年金として結実したのかを明らかにしていく。障害基礎年金制度の成立経緯の明確化は、現行の障害者福祉政策が抱える構造上の問題点を明るみにし、その問題の克服に大きな示唆を与えるものと考えられる。
研究の目的に到達するため、記録資料となる障害者団体の機関紙、国際障害者年に関連した政府資料、白書、国会議事録、障害当事者や官僚による交渉の記録、元厚生省年金局官僚による1985年年金改正に関する座談会記録、故人の評伝等を用いた分析を行った。
また聞き取り調査として当事者運動の活動家、当時の年金改革に携わった厚生省年金局や社会局更生課の官僚、自らも障害を持った国会議員と、その秘書へのインタビューを行った。インタビューは半構造化面接で実施し、内容はICレコーダーを用いて録音し逐語記録を作成した。作成した逐語記録は障害者団体機関紙や国会議事録等の記録資料と照合させながら内容分析を行った。
さらに記録資料や聞き取り調査等から明らかになった知見を、非難回避戦略モデルを用いて分析し、障害基礎年金の成立プロセスや課題の明確化を試みた。
本書における各章の目的と新たに得られた知見は以下の通りである(序章及び最終章は除く)。
第1章では、1985年年金改正について、改革を行わなければならなかった背景、さらに改革全体の中での障害基礎年金の位置づけを明確にしていくことを目的とした。結論として、障害基礎年金が年金改正全体の中の緩和策に位置付けられること、厚生省は新法の施行時期を重要視したことが明らかになった。
第2章では、障害者運動の生成プロセスから始まり、身体障害者実態調査の反対運動をきっかけとして、脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会(以下、CP研究会)に結集した障害者団体や板山賢治が障害基礎年金の原形と言われる最終報告書をまとめるまでの経緯を明らかにしていくことを目的とした。結論として、東京青い芝の会での内部闘争を経て行政と柔軟に交渉を行う運動スタイルが確立されたこと、CP研究会における板山の具体的な貢献内容、CP研究会の最終報告書が障害基礎年金制度に与えた影響を明らかにした。
第3章では、CP研究会を引き継いだ「障害者の生活保障問題検討委員会」、さらに具体的な障害者所得保障の検討の場であった「障害者生活保障問題専門家会議」の最終報告書提出を経て、1983(昭和58)年11月、林義郎厚相による年金改革案の審議会への諮問にいたるまでの、当事者の所得保障改革運動と政治家、年金局官僚らの貢献を明らかにしていくことを目的とした。結論として、当事者運動と年金改革に携わった厚生官僚の動きをつないだ政治の役割があったこと、障害者団体の政府・行政への柔軟な対応が所得保障改革につながったこと、年金局長であった山口新一郎の貢献、障害基礎年金成立の根拠となる「20歳未満の滞納なし」は、拠出制の資格期間撤廃と密接に関連していたこと、第二臨調による行革の方向性に沿った年金改革と、国際障害者年を背景とした障害者運動の盛り上がりの時期が一致したことが障害基礎年金につながったことを明らかにした。
第4章では、1981(昭和56)年の国際障害者年前後から活発になった障害者所得保障に関する研究者の議論から、所得保障に対する障害者団体や厚生省の立場を明確にしていく事を目的とした。結論として、生活保護を批判した高藤昭と障害者団体の主張に相違点があったこと、厚生省は生活保護を最低生活保障、年金・手当を立法裁量主義と位置付けていたこと、高藤や障害者団体による生活保護批判は社会連帯に基づく障害基礎年金制度の誕生に影響を与えたことを明らかにした。
第5章では1985年年金改正で基礎年金への国庫負担の一元化に伴う大蔵省と厚生省の利害関係、さらには期待給付額削減の影響を受けた被用者年金や被保険者の立場、その背後に位置付けられる社会党や労働組合などの1985年年金改正への思惑を明らかにしていく事を目的とした。結論として、他年金に比べて高い給付水準を維持していた共済組合は給付水準の引き下げを恐れたこと、大蔵省と厚生省の利害構造の調整のために、国庫負担の基礎年金勘定への集中や積立金運用権限の移譲等があったこと、各保険者から障害福祉年金の障害基礎年金への裁定替えの反対はなかったことを明らかにした。
第6章では、第5章で明らかにした不利益を被るはずの被用者年金の被保険者等の反対アクターが、なぜ最終的に賛成に回ったのか、反対意見を持ったアクターに対して、障害基礎年金はどのような役割を担ったのかを明らかにしていくことを目的とした。結論として、国民年金法施行後25年目の年金改革法施行のため、被用者年金の背後にいた社会党や労働組合といったステークホルダーの利害調整の役割を障害基礎年金制度が担ったこと、身体障害者福祉法への脳性マヒ者の等級区分設定は、1985年年金改正を審議した国会会期中に、障害者団体が改正成立に向けた声を上げることへの強い後押しになったこと、1985年年金改正への参加に頑なに了承しない大蔵省共済課に対して政治的な働きかけがあったことを明らかにした。
第7章では、第6章までに明らかになった障害基礎年金の成立経緯について非難回避戦略モデルを用いて分析すると、障害基礎年金のように、1985年年金改正の国会成立の合意形成に資するものと、そうでない、稼得能力や介護保障等の先送りされた課題が明らかになった。今後先送りされた課題の解決のためには、当事者グループ固有の要求と、政治家・官僚等の受け止める側の関係の構築が重要となることが示唆された。
本書では、1985(昭和60)年の障害基礎年金成立に際して脳性マヒ者を中心とした障害者団体の強い影響力を指摘した。一方で同じ脳性マヒ者達が主張した生活保護批判や、所得保障への稼得能力の反映、また所得ではなく介護保障を求めたグループの主張は議論の遡上には上げられず、問題は先送りされた。確かに生活保護に代わる長期的な所得保障制度として障害基礎年金は良い制度として位置づけられるはずであったが、実際の支給額は生活保護の基準額には満たなかった。生活保護の他人介護加算に代わる仕組みも制度化されなかった。つまり障害が重度であればあるほど、生活保護から脱却した自立生活を送ることが難しくなった。運動の到達点として障害基礎年金制度の誕生の意義を論じたが、障害基礎年金の制度自体の規範、つまり評価が不十分であることが本研究の限界点といえる。これは別の言い方をすれば、本研究では現実的な妥協点を探りつつ障害基礎年金へ辿り着いた困難の軌跡を伝えることに重点を置いた結果生じた限界点であるといえる。
障害基礎年金制度の誕生後、この制度に批判的な当事者グループによって、介護保障制度を求める運動が拡がっていく。障害基礎年金後の介護保障運動の展開と到達点を知ることにより、改めて障害基礎年金制度の評価を明らかにしていくことが今後の課題である。
本書は2018年度に立命館大学大学院へ提出した博士論文を加筆・修正したものとなる。ご指導いただいた立命館大学大学院先端総合学術研究科の先生方、さらにはインタビューに応じていただいた方々、その他、ご協力いただいた皆様に深く感謝申し上げたい。